安保法案の成立と日本の国会

  • 2015年9月26日
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  • 日記
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2015年9月16日
安全保障関連法案が採決された。

集団的自衛権の行使を認めるというのが
最も大きな論点となった法案だった。

個人的にはこの法案には反対だった。

戦後制定された日本国憲法。
その9条にある平和主義から遠ざかる気がするからだ。

この法案が成立するにあたって
今の日本をとりまく環境が変わったということが、
ひとつの要因として挙げられていたが、

私はもともと

環境を理由にする。

というのはおかしいと思っている。

もし、それを理由にするのなら
戦後すぐの段階であっても 
日本が攻撃される可能性が0でないという意味では
現状と変わりないのだから、その時点で声を挙げるべきである。

その時言えなかったことをなぜ今言うのか。

環境に起因して立ち位置を変えることは
裏を返せば、自分の意見に“芯”がないとも言える。

日本を一人の人間として見てみると
憲法という最も根幹手にある部分(の解釈)を
その時の環境を原因にして変えてしまうのだから、
人としては都合が良いというか、
なんだか“ぶれ”ている。

人間だろうが国だろうが、
都合よく立ち位置を変えるというのは脆弱である。

日本は、
「他国から自分の国が攻撃されるかもしれない」
というリスクを知った上で、それでもなお
憲法9条をもっていた。

今回の法案の成立は
変化の度合いでいえば0.1程度の微小なものかもしれない。
しかし、0が0.1になった。
「ない」が「ある」になったという点では大きすぎる変化だと感じる。 

今回、ある意味ではなし崩し的に
(戦力が「ある」という)土台に上がってしまった以上、
ここからはその戦力の比べ合いになっていかざるを得ないだろう。

0であったからこそ意味があったものが、
0.1になったことで、100と同じものになってしまった。

“なし崩し的”にという言葉で思い出したが、
今回の法案成立は本当にひどいものだった。

これに関しては与党の説明不十分という点だけではなく
野党の閣議決定時の対応など、
国会内での議論そのものに対して感じていることである。

仮にも国民の代表として集まっている国会議員が、
議長にとびかかったり罵声をあびせたり
恥ずかしげもなくあれだけの醜態を国民にさらす姿
には正直絶句した。
まるで子供のけんかというか、 とにかく醜かった。
選挙に行った一成人としても
情けないやら恥ずかしいやら言いようのない悲しさを感じた。

また、今回の一騒動で
「若い人たちが政治に興味をもってくれた」
という見解を様々なところで聞く。

確かに今回の与党の横暴な態度に腹を立てた若者も多いかもしれない。
でも、その若者が次に見るであろう次期与党候補(現野党)も
今回の国会では足並みをそろえることもできず
国民に見せた姿は議長にとびかかったり、数珠をもって投票に行ったりと、
あまりに説得力のない姿だった。

そうなると、若者が感じるのは選挙・政治へのモチベーション
よりむしろ行っても何もかわらない
という“虚無感”ではないだろうか。

 個人的な感想だが、
『国民の支持を得る』という言葉の奥に潜む
政党や議員の私利私欲を見せられたような気がする。

今回の件は、
法案成立自体に感じることも大きかったが、
それと同じくらい日本の国会・国会議員の在り方に
大きな疑問を感じる一件になった。 

現議会よりも、『日本』というひとつの国のことを親身に思っていた
国民や過去の議会が存在しているのだとしたら
本当に現議会を選んだ国民の一人として情けなく思う。
 

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