今日は、雨の中初訪問の国立能楽堂へ。
総武線の千駄ヶ谷駅から歩くこと5分。
趣のある門をくぐると東京の都心とは思えないような
荘厳な建物がありました。
さすがに「国立」というだけあって素敵な風貌。
ふと思ったが、「国立」のクラシックホールってあるんだろうか…
検索しても「クニタチ」のホールが出てきてしまったので、今回は割愛。
さて、本日の訪問の理由はこちら。
第25回浅見真州の会
こちらの会の前半で、大学時代の同級生で今も仲のいい
小早川泰輝(こばやかわやすき)がシテ(演目の主人公)を務めるということで
見に行ってきました。
今回の番組は全4時間の盛り沢山の内容。
番組の見どころはなんといっても後半の能「鐘巻」で、
能の中でも人気の高い「道成寺」をさらに掘り下げた
『原典版』的な解釈での演目となっていました。
これは、クラシックだと当時の奏法を再現する、
『ピリオド奏法』の演奏会に近いかもしれませんね。
そんな非常に貴重な会の鑑賞。
大学時代もいろいろなご縁で能を見る機会はあったのですが、
個人的には久しぶりの鑑賞でした。
今回は、ちょうど良い機会なので
この公演や今までの能の鑑賞で自分が思ったことを
少しまとめておこうと思います。
1.能=オペラ,狂言=ミュージカル
伝統芸能の中でも少し敷居の高いイメージがある能ですが
クラシックに興味のある人だと、能=オペラ,狂言=ミュージカルと思っておくと
わかりやすいかもしれません。
誤解を恐れずに言えば、
能はひとつの音楽+演劇として突き詰められた芸術であり、
狂言はクスっと笑うことのできる幾分気楽に楽しめる芸術
そんな感じでしょうか。
そしてオペラやミュージカルはストーリーを知った上でその演出を楽しむのも面白い芸術。
なので能を観に行く際にも予めストーリーを知ってから観に行くほうが絶対に楽しめると思います。
2.自分流『能』の楽しみ方
私は、能を年に何回も見るわけではないので、これはあくまで“自分流”の楽しみ方。
といっても大層なことではないですが、それは、
①あらすじを頭に入れて
②予め台詞(=詞章)をインターネットなどで探して印刷して持っていく
こと。
私は、能の舞台で役者さんが発する言葉を全部は聞き取ることができません。
オペラだと字幕という形で「今何をやっているか」ということが
目からもなんとなくわかるようになっていますが、
能だと日本公演の場合それがない。
さらに、仮に知っている単語でも抑揚や伸び縮みがあると
やっぱりなんと言っているのかわからない。
なので、台詞(=詞章)を手元に置いておいて
言っていることを視覚的にもわるようにしています。
それだけですが、ストーリーを追うことが楽になり、
かなり集中して舞台を見ることができます。
3.能に使われる音楽
能は元々屋外で演じられるものとして成立した芸術。
そうすると葉がすれる音や、鳥の鳴き声といった
“自然の音”というのも必ず聞こえてきます。
だから、能で使われる音楽も、それと「調和」するものになっている気がします。
そのため、発声もオペラのような「遠くに通る声」というものではなく
地を這うような「腹の底からの声」になります。
また、これは試したことがないのでわかりませんが、
能面をつけて演じることの多い能ではそういった「腹の底からの声」の方が
聞き取りやすいようにも思います。
4.能の見せ場 ー舞ー
能の中盤から終盤にかけて主人公(=シテ)が行う「舞」。
能ではこれがひとつの見せ場になっています。
(オペラだとアリアにあたりますね。)
その舞は、
・物語の中での大きな局面(ターニングポイント)
・主人公(=シテ)の心境の吐露
・能楽師の舞の腕の見せ所
といった役割を担っていることが多いです。
そしてこれが個人的に能のおもしろい部分だと思うのですが、
物語の一番大切な舞の部分では主人公(=シテ)は言葉を発しません。
舞の部分で声を発しているのは「地謡」と呼ばれる合唱集団的な人。
この地謡が主人公(=シテ)の心境を代弁する中で、それに合わせて主人公(=シテ)が舞う。
個人的にこれがとても「日本的」で良いなぁと思います。
世阿弥の言葉を借りれば、まさに「秘すれば花」。
大切なことは言いません。感じてください。
という能のスタンスが、やはり私たち日本人には響くんだと思います。
5.能に感じる違和感
ここまでは能についての雑感を書きましたが、
ここで能を見ている時に感じる違和感を少しだけ。
きっと能を好きな人、年に何回も見る人からすると
全然違和感ではないと思うので予めご了承ください。
私が能を見ていて一番多く「ん?」と感じるのは、
「囃子」と「役者(シテ・ワキ)の謡」とのバランス
です。
特に、主人公(=シテ)は能面をつけていることもあり
どうしても声が通りにくく声量も出づらい。
それに対して、囃子の人は割と「容赦なく」演奏するので、
主人公(=シテ)の謡はしばしばかき消される。
そうすると前述の通り、観客は「今何を謡っているのか」が全く聞き取れなくなります。
これは物語のある芸術にとっては、結構致命的なんじゃないかなぁ…と思います。
もちろん、囃子も能を構成する上での大切な一部ではありますが、
やはり役者が謡っている時にはその台詞を前面に出して聴かせて欲しいなぁと思ってしまうのです。
6.謡方と囃子方
能は大きく分けて2つの役割から構成されています。
謡(台詞・ストーリー)を担当する謡方と、
楽器演奏を担当する囃子方
です。
そしてこれが驚いたのですが、
能の世界では「合わせ」というものをあまりやらないそうです。
(詳しくはこちら> 演能のためのリハーサルは何回ある?)
「申し合わせ」と呼ばれるこの合わせは、原則本番前の一度きりのみ。
オペラで言えば、立ち稽古やリハーサルあとの
ゲネラルプローベ(通称:ゲネプロ)にあたるのがこの「申し合わせ」ということに。
2時間近いものも珍しくない演目を一回きりの合わせだけで本番というのは、
なかなか凄いことだなと感じます。
もちろん、実際には時と場合にもよるのだと思いますが、
謡方、囃子方がそれぞれ練習してきたものを持ち寄って一回の合わせで仕上げる。
それであれだけの空間や音楽を提供できるのですから
「やはりその道のプロ」だなぁと感じざるを得ません。
ただ、その反面で、
能にはオペラの世界でいうところの指揮者や舞台監督にあたる統括する人がいないので
「謡が聞こえるようにもっと囃子を抑えて」などの微調整をすることが難しくなります。
この統括者の不在が先述の「謡が聞こえない」ということになっている
ひとつの要因かとも思います。
また、能の最後は囃子(大体締め太鼓)の
「ヨ――――ォ!ポン!」で終わることが多いのですが、その後の余韻も
その時の囃子方の方々によってまちまち。
しっかり余韻がある場合もありますが、多くの場合さっと終わって片づけに入ってしまう。
素晴らしい舞台であればあるほど、その間髪ない感じが少し味気なく見えます。
これも、「指揮者がいたり合わせがあるともっと良くなるんじゃないかなぁ」
と思うことのひとつで、それぞれ謡と囃子のプロということはわかるのですが、
“一体感”という部分では少し薄いように感じてしまいます。
7.能の魅力
年に1~2回程度しか鑑賞しない私ですが、過去には死ぬほど感動した経験もあります。
それは、やはり能には能にしかない魅力があるからで、
今回の「浅見真州の会」で一番感じたのは、
心が浄化されていく感じ
でした。
能の舞台の上に立つ美しい衣装と、能面をつけた能楽師。
その姿は、まさに役が憑依したかのようで、
まるでタイムスリップしたかのような感覚さえ覚えます。
そして、舞台はすぐそこにあるのに、どこか手の届かないように感じる「神聖さ」からは、
なんだか「自分が日本人であること」にはっと気づかせてくれます。
それはまるで、大自然の山や大木を目にした時に感じる
「心が浄化されていく感じ」と似ているように思います。
8.まとめ
今回は、「第25回浅見真州の会」の鑑賞をきっかけに
自分の思う能に対する所感をまとめてみました。
大して詳しくもないのにいろいろと偉そうなことを言いましたが、
あくまで一素人の意見ですので、そう思って読んでいただければ幸いです。
※今回の記事で触れた内容の真相をご存知の方やご意見がある場合は是非お気軽にコメントください。
職業柄クラシックの演奏会に足を運ぶことの方が多いのですが、
能では、同じ“感動”でも少し種類の違う“感動”を味わうことができます。
そしてそれはやはり、
自分が日本人であり、その日本人らしさの“無意識”に訴えてくるから
なのかな、とおぼろげながらに思っています。
幸いなことに東京に住んでいると今回のようなちょっとしたきっかけで
気軽に能を観に行くことができます。
これからも折に触れて鑑賞の機会を設けていきたい。
そんな魅力が能にはあると思います。